幸せなら手を叩こう

思ったことを徒然なるままに

光待つ場所へ

こんにちは、タカハッピーです。

今日はこんな本を読み終わりました。それがこちら。

光待つ場所へ (講談社文庫)

光待つ場所へ (講談社文庫)

辻村深月先生の「光待つ場所へ」です。
本作は短編集だったのですが、今までの小説に登場してきた人物が至る所で出てきたので、スピンオフ作品のようでもありました。
特に一番最初の話「しあわせのこみち」の主人公「清水あやめ」は辻村深月先生のデビュー小説「冷たい校舎の時は止まる」にも出てきた人物なので「あああ!」と思わず指をさしてしまいそうになりました。
「冷たい校舎の時は止まる」が大好き、というのもありますが、「清水あやめ」に中学生の頃の自分の姿を投影させていたのですごく印象に残っていたのです。
私がどんな中学生を送っていたのか。小説風に遡っていくと…

「ねぇそれマジウケるんだけど〜」
「でしょでしょ、それでねー!」
女子たちが机を叩きカラカラと笑いながら話をしている。それはテレビの話だったり、部活のことだったり。はたまた好きな男の子の話だったり。
私はその横でサッと塾の問題集を開いた。
xが3増加するときyが15増加する。これを変化の割合の式に当てはめるとどうなるか。
△AOBと△BOCの面積比が2:3となるときのaの値を求めよ。
文章を読み、式を作る。このプロセスを何度も繰り返す。自分で言うのもなんだが、当時は勉強はよくできる方だった。もっとたくさん勉強して、山口の某進学校に行く。そのことを目標に頑張っている。
…という建前だった。
「見ろよ。ガリ勉、今日も勉強してるぜ」
「きも。マジであいつ勉強のことしか考えてないよな」
ガリ勉。それは私の"あだ名"だった。
私はうまくやれる中学生ではなかった。カラカラと笑う女子たちの中に入って一緒に話すことも、私のこと「ガリ勉」と呼ぶ男子たちに「何言ってんだよー」と返すこともなく、黙々と勉強していた。
正直、バカみたいだと思っていた。私○○くんのことが好きなの!えー、マジで!応援するー!○○くん、めっちゃイケメンなのー!え、生田斗真似だとか?
…くだらない。
男に黄色い声をあげながら楽しそうに話す女子たちの気持ちがわからなかった。掃除中や授業中にギャーギャー騒ぐ猿みたいな奴らに色目を使うことが、なんて哀れなことなのだろうと呆れていた。向こうも私のことを決して仲間に入れようとしない分、私も絶対に仲間に入りたいと思わなかった。
ガリ勉」と陰口を叩く男子たちも、心底頭が悪いと思っていた。大して勉強ができないくせに、僻んでる。そう思っていた。
それに、どんなにクラスで浮いていても、勉強をしていると穏やかな気持ちになった。593年、聖徳太子が摂政になる。645年、大化の改新。年号を頭に入れていくと、自然とジメッとした気持ちが乾いていった。私は山口の某進学校に行く。お前らとは違う。私は「選ばれた存在」なんだ。群れたり、恋の話で盛り上がったりしない。誰にも縋り付かず一人でこうして勉強することができる。
そしてわたしには友達や恋人がいない分、頭の回転が速い方だった。人が考えつかないことを考えることができる。テストの点だって上位層。わたしは人間関係を犠牲にしている分、その能力を手に入れた。
高校に進学するまで、ずっとこんな感じだった。"孤独"ということに酔っていた。ただクラスで浮いているということを、「自分は天才」なのだと思い込むようにしていた。

…「清水あやめ」はまさにその私でした。
「私は『普通』になれない。人と関係を築き、恋をし、外見に気を配る。健全な『普通』の世界は、私にとってある意味では低く、けれどどれだけ望んでも届かない遥か遠くの高い位置にある。感性を武器に世界から愛された私は、自分を取り巻くミニマムの環境や隣の誰かから愛されることを望むべきではない。孤独なのは当たり前だった。自意識と感性とともに、心中する覚悟を決めたのだ」
普通になれない自分に酩酊する。そう。私も清水あやめもすっごく痛いのです。
私が高校に進学した時、周りにはもっともっと賢い人がたくさんいました。それだけならいいのですが、その賢い子たちは中学のころ周りにいた人たちのように、カラカラと笑いながら男の子の話をしたりしていました。
なぜ。
そう思いました。賢いのに。どうして私みたいに人間関係を犠牲にせずともそうやって「賢さ」を手に入れてるんだ。
私は「僻まれている」と思い込んでいましたが、僻んでいるのは私でした。わたしには「勉強」しかありませんでした。高校に入って、周りの賢さに押されて唯一の武器の「勉強」もなくなりました。わたしには何もない。頭の回転が速いというのはハリボテで、本当にただの空っぽ人間でした。
「自分の好きな本や、音楽や絵に囲まれながら、プロになれるくらいの才能を持ち合わせながら、何故そんな『普通の幸せ』が必要なのだろうか。それを手に入れているのであれば、描くことなんかきっと必要にならない。たとえば、私以上には」
「普通ではない」自分には才能がある。清水あやめも私もそう信じたかったのです。けれど、それは「個性的」な自分に酔っているだけで実際はそうではないということに気付かされました。
私は高校に進学し、勉強を辞めました。机に齧り付くように鉛筆を動かし続けていたのがウソみたいに、休み時間は友達とおしゃべりをし、休日はカラオケに行ったりしました。勉強以外に大切なものを見つけ、「普通」になる努力を始めました。中学の自分からは考えられませんでした。しかし、そうすることでかけがえのない高校生活を過ごすことができました。本当はずっとずっと、見下し続けていた「普通」の学生生活が羨ましかったのです。
「清水さんはもちろん、幸せっていう感覚がどんなものかを知っている。内側に閉じること、自分の世界に陶酔することがそうでしょう?(中略)どうして諦めるの?清水さんは、俺には羨ましいと言いながら、一方で、他人と関係を作ることを拒絶してるように見える。誰かを好きになったこと、ない?」
これは清水あやめの友達の田辺くんが言い放った言葉。
…たしかにその通りです。私は「個性的な自分」に酔うだけではなく、人と関わることを拒絶していました。「上手くやれないから」と決めつけて逃げていました。「人を好きになる」ことに怯えていました。今でも友達は少ないし、恋人もいません。けれど、中学の時みたいに「ガリ勉」だなんて陰口を叩かれるほど勉強していません。それはきっとあの頃より「人を好きになる」ことができるようになっているから。大切なものが何かわかっているから。清水あやめも私も、最終的にはそのことに気づけたように思えます。これからも、大切なものは何か、自分と確認しながら過ごしていきたい。
そんな風に思いました。
みなさんもぜひ、「光待つ場所へ」を読んでみてください!
それではさようなら。