幸せなら手を叩こう

思ったことを徒然なるままに

おじいちゃん

お久しぶりですね。こんにちは、タカハッピーです。

まだ就活終わってないのですが、まぁひと段落ついたので筆をとってみたわけです。

話は変わりますが、一昨日、広島平和記念資料館に行きました。

広島の大学に来て四年目にして、やっと足を運んだわけですが…

原爆の悲惨さ、恐ろしさを身にしみて感じました。小学校、中学校ともに平和資料館に訪れたことはあったのですが、その当時は皮膚がただれ、髪の毛が逆立ってる蝋人形が置いてあり、すごくびっくりしたのを覚えています。今はリニューアルされて撤去されていましたが、代わりにプロジェクションマッピングを使った広島市ジオラマがあり、原爆が投下されてから破壊されるまでの様子をリアルに表現してありました。

ところでなぜ、突然広島平和記念資料館に行ったのか。

理由は簡単。公務員の面接のネタのため。

そんな理由でしか足を運べない自分。本当に情けない。

情けない情けない…そんな思いを抱きながら、丸コゲになった三輪車や金庫を見ているうちに、ふと、一昨年亡くなった父方の祖父のことを思い出しました。

祖父。私は祖父のことをあまり知らない孫でした。原爆の被爆者でありながらも、ものすごく元気で見た感じ外傷もなく、町内会の囲碁大会に参加したり、手先がとても器用で油絵で風景画を描き、部屋に飾るような人。

けれど、会話したことはほとんどなく、盆と正月しか会いに行かなかったので、私たち三姉妹の区別もついていませんでした。

祖父「まーちゃん?」

ハッピー「ハッピーです」

祖父「りーちゃん?」

妹「まーです」

全員名前が似てるんだ、と祖父は言っていましたが、私は(覚える気もないんだろうな)と思っていました。

逆に私と同じ孫である、ゆう君やしーちゃん、わーちゃん三兄弟のことはとてもよく可愛がってました。

ゆう君やしーちゃんは阪大や京大といった超名門大学を出ているし、わーちゃんも地元国公立を卒業しています。ピアノも弾けるし運動神経も抜群。私なんかショボすぎるし自慢の孫じゃない。だからあの三兄弟をかわいがるし、私たちは名前さえ覚えてもらえないんだろうな、と思ってました。

原爆の被爆者、と聞いてはいたものの原爆の話もすすんでするような人ではありませんでした。母によると「水をくれ、水をくれと人々が集まってきた」と話をしてたこともあったようですが、私の中では記憶にありませんでした。きっと辛い思いがあって、そんなにたくさん語りたくないのだろうなと思ってました。

そんな祖父が80歳を超えた頃、体が弱り、入院しました。被爆者とは思えないほど一番元気で死にそうになかったのに、と私は驚きましたが、寿命でしょう。

家族でお見舞いに行くと、祖父は体がほとんど動かず、話すのも大変そうでした。そんな中、こんなことを言いました。

祖父「お前、俺のズボンを下げろ」

祖母「え?はいはい」

祖父「もっと、もっとだ」

祖母「えぇ、でもこれ以上さげたらオチンコちゃんが見えちゃうよ」

祖父「見えてもいいから」

突然下半身を露出させたがる祖父に、私たち家族は呆然としていました。

祖父「○○(私の母の本名)に俺の原爆の傷を見せたいんだ」

母「えっ」

どうしてまた突然…

そう思いながらも、よくわからないなこと言うなよ、とみんなで笑い、その場をやり過ごしました。

そうして意識がはっきりしていた祖父も一ヶ月後、昏睡状態になりました。

お見舞いに行っても目を閉じたままでスーハースーハー苦しそうに息をしていました。

それから数日後、祖父は亡くなりました。

葬式の日、久々に親戚皆で集まってご飯を食べました。その際に祖父が残していたアルバムや日記などを皆で見ていました。

祖父は実は文章を書くのが大好きで、東京で仕事をしていた時のことや、子供たちのことを何冊にもわたって記していました。

私がこうしてブログを開設して日記などを書いてるのも祖父の血なのかと思うとふふっと笑みがこぼれました。あんまり仲がいいとは言えない祖父と孫だったけれど、血は争えないのでしょう。

アルバムもめくっていくと、父や叔母や叔父、祖母と旅行に行った写真であふれていました。その中に、ふと目に止まった写真がありました。

「たっちができるようになりました!」

写真というよりポストカードで、その文字のとなりにご機嫌な様子で壁に寄り添いながら立ってる赤ちゃんの画像がありました。

「これ…私?」

「そうよ。それはあなたよ」

母は私を見てそう言いました。

名前も覚えてもらえない、あまり話したこともなかったけれど、祖父は私の赤ん坊のころの写真をアルバムに入れてくれていました。

めくっていくと、祖父が私たち家族の家に遊びに来た写真や、みんなで神社にお参りした写真など、たくさんの写真がアルバムに挟んでありました。

…愛されていないと思っていたけれど、祖父は私のことをちゃんと好きだったのかもしれない。

ゆう君たちみたいに立派じゃないけど、本当は私のことも思っていてくれたのかもしれない。

アルバムを見ながらそう思いました。

私は広島の大学に進学して、母方の祖父母の家には何度も遊びに行きました。母方の祖父母の家も広島にあったのです。母方の祖父母は私のことちゃんと「ハッピーちゃん」と呼んでくれるし、小学校の頃からよくしてくれていたのでご飯を食べたりおしゃべりしに行ったりしていました。

しかし、父方の祖父母の家には一度も行きませんでした。私なんかが行っても、と思っていたし、面倒だなとも思っていました。

…本当は行くべきだったのかもしれない。

亡くなった後にこんなこと思っても仕方ないのに、一度も訪ねていかなかったことを後悔しました。病院のお見舞いも、家族が行こうと言ったから二度行っただけで、自主的に行こうとは思わなかったし、愛されてないと思っていたけど、本当は私の方から離れていたのかもしれない。

原爆の話もあまりしていなかったけれど、お見舞いに行った時傷を見せたがっていました。本当は原爆の悲惨さを伝えたかったけれど、暗くて怖い話だから誰も真面目に聞いてくれなかっただけなのかもしれない。

ちゃんと祖父と向き合っていれば…

ただ、そう思いました。


広島平和記念資料館を出て、私は祖父のことをちゃんと覚えていよう、原爆の恐ろしさも私の体の一部として身につけておこう、と思いました。


祖父…おじいちゃん、安らかに眠ってくれればいいな。天国で楽しく過ごしているといいな。


それでは、さようなら。