幸せなら手を叩こう

思ったことを徒然なるままに

きよしこ

こんにちは、タカハッピーです。

今日はこんな本を読み終わりました。

それがこちら。

きよしこ (新潮文庫)

きよしこ (新潮文庫)

重松清先生の「きよしこ」です。
「きみの友だち」を読んで以来、もっと重松清先生の本を読んでみたい、特に「赤ヘル1975」が気になる!と図書館で探したのですが…なんと「赤ヘル1975」は借りられてました。
そこで薄くて読みやすそうな「きよしこ」を代わりに借りたのです。
感想としては…これまた良い。失礼ながら代打にしたのに少年の時の流れと描写がとても丁寧。
主人公の少年は吃音に苦しんでます。カ行とタ行がうまく発音できないのです。きききき、ききき気をつけて。とととと、とっても…と、まぁこんな感じに。
私は小さい頃からおしゃべりな子でした。あのねあのね、ハッピーちゃんね、昨日こんなことしたんだー!こないだこんなことしたんだよー!
早口でまくしたてるように自分のことばかりをめちゃくちゃに喋る子でした。まぁ今もそれは変わってないように思いますが。
なので、吃音というのは自分の中では体験がないのであまり気持ちをわかることはできません。言いたいことはなんでも話してきた身分なので、そこはどうしても共感できません。
しかし、言いたいことを伝えすぎたあまり、苦しくなったことは多々あります。
「ハッピーってさぁ、無神経だよね」
これは過去に直接友達から言われた言葉。
無神経。何も考えず、思ったことをすぐに口にする。
そんなつもりではなかったのですが、私はなんでもかんでも話すあまりに、「無神経」というラベルを貼られていました。
誰も傷つけたくない。
でも、話さないと、無視をしてしまうことになる。
話すと無神経というラベルが貼られる。
どちにしろ誰かが傷つく。「言葉」というものが諸刃の剣のように思えて、発しても発さなくても、傷を負わせてしまう。
この小説の主人公の少年は「伝えたくても伝えることができない」子です。私のように「言葉」を伝えることで自分が傷つくのではなく、「言葉」を扱えないあまりにイライラしてしまう。
けれど、彼が言葉を扱えたとしても、きっと「言葉」について悩んだのだろうな、とも思いました。
『「がっ、がっ、がっ…」
  言葉がつっかえてほっとしたなんて、生まれて初めてだったかもしれない。
「がんばるから!」と大野は少年の背中に答えた。(中略)
でも、ほんとうは、大野は勘違いしてた。少年が言いたかったのは、「がんばれ」ではなかった。
がんばるけんー自分のことを言いたかったのだ。』
これは少年が友達の大野くんに野球部のレギュラーを取られてしまった時のシーンです。
自分のことを、「がんばる」と言いたかったけれど、大野が「俺のことがんばれって言いたかったのかな?」と勘違いしたためにこうなったということ。
言葉をちゃんと伝えることができないから、大野は勇気づけられた。
言葉というのは難しい。伝えることで傷ついたり、伝わらないことで誰かが勇気づけられたり、扱いは本当に大変なのだと思いました。
私は「言葉が伝わらない」という経験はあまりないけれど、「伝える」ということよりも、「どう受け取るか」もよく考えて発していきたい。そんな風に思いました。
それでは、さようなら。