幸せなら手を叩こう

思ったことを徒然なるままに

2万円の封筒

こんにちは、タカハッピーです。

今日、SEKAI NO OWARISaoriさんのエッセイを読み、ふと思うことがありました。



これですね。


1時間2万円のピアノのレッスンにやっとの思いで通わせてもらっていたSaoriさん。夜行バスで交通費を浮かせ、全神経を尖らせてレッスンを受けたという。


それでも、中には毎週その先生のもとに通う人、そのレッスンの交通手段が新幹線の人、毎年のようにピアノの海外留学に行く人など、自分より格段にピアノの環境が整っている人がいたという。


ここで、Saoriさんの文章を引用します。

客観的に考えれば自分も恵まれているはずなのに、彼らの演奏が素晴らしいと「お金持ちのおうちはいくらでもレッスンが受けられるからね」という嫌味(いやみ)が頭をよぎった。私だって、あんなにお金持ちの家に生まれたら。どうしても振り払えないその考えが、時に彼らより良い演奏ができない言い訳にもなっていった。』

ああ……

とても共感したとともに、その文章が自分にも突き刺さってきました。

前にも書きましたが、私は中学生の頃、勉強ばかりしていました。ガリ勉という渾名をつけられ、「勉強が友達」と自分でも思っていた節がありました。

そして高校受験の後。なんとか第一志望の高校に合格し、私は「高校でもたくさん勉強しよう」と思い、親にこう言いました。

「私はいい大学に行きたい。国立で都会にあるような。だから、春休み、塾に通わせてほしい。高校の勉強を予習して、トップの成績をとりたい」

すると親は顔をしかめました。

「悪いけど、妹も二人いるわけだし、あなたにそんなにお金はかけられない。塾にはもう通わせてあげられない」

えっ…

ショックでした。「勉強がしたい」ことに反対されるだなんて微塵も思っていなかったのです。

仕方がないので、高校の教科書を買ったあと、予習をしました。本当は某衛星予備校に通いたかったけど、仕方がない。「私はお金がない家庭の子供」なのだから。そう自分に言い聞かせていました。

そして入学後。一番最初のテストは予習したのもあって上位層でした。よし、このまま頑張るぞ。自分を鼓舞しました。

しかし。同じくテストの上位層の人たちは、運動部で活動しながらカラカラとテレビや恋愛の話を教室でしていました。

私はこんなに勉強しているのに。人間関係を犠牲にしてまでがんばってるのに。なんで。なんであの人たちと私はこんなに違うの。

そうして、勉強していることがバカらしくなって勉強をやめました。

しかし…

「あぁ〜、明日塾じゃんだっっる」

「眠くて授業寝ちゃうんだよね〜」

塾に通ってる人たちがそう言うたびに、ムッとしていました。


…塾に通えるほど恵まれているのに。なんで怠いとか寝るとか言うの。


私は自分で勉強するのを辞めたくせに、次第に「塾に通ってる人」を「金持ちで恵まれてる人」だと思い込むようになり、「お金持ちの人はいくらでも塾に通えていいね」という嫌味が頭の中をよぎるようになりました。

「いいね、塾に通えて。私も通いたいわ」と面と向かって塾に通ってる人に言ったりしました。

自分が勉強しなかったことを、「塾に通わせてもらえない」ことで正当化していたのです。


私はどう考えても恵まれている家庭だ、ということに気がついたのは大学に入ってからです。三姉妹なのに、親は3人ともに大学に通わせてくれようとしています。大学受験のときも「私立の大学に行きたかったら私立でもいいからね」とも言ってくれました。

なのに、自分が勉強しなかったことを「塾に通わせてもらえない」ことで防衛機制し、成績がいい人たちに向かって「あなたは私と違って塾に通っているから」と思っていました。

言い訳です。


環境が全く相関がないとは言いませんが、勉強なんてしようと思えば誰だってできます。「お金がなくて環境が完備されなかった」ことは「勉強しなかった」ことの理由になりません。

環境が完全に用意されてるからピアノが、勉強が、できるのではない。本人の努力とモチベーションが一番の要になっている。

そういうことが、Saoriさんの文章で改めて気づかされました。

あの頃の自分、言い訳する前にちゃんとやりな。

そういう風に言ってやりたいもんです。笑


それでは、さようなら。