幸せなら手を叩こう

思ったことを徒然なるままに

人間

こんにちは、タカハッピーです。

先日こんな本を読み終わりました。

それがこちら。

人間

人間

又吉直樹さんの「人間」です。
前回、「又吉は文学っぽいことをしているだけで3年で消える」と言っていた教授がセクハラで消えた、という事実をフィクションにして書かれている、と聞いたので「劇場」を読んで探したのですが、見つからず。
しかし、今回発見いたしました。影島という芸人が芥川賞をとり、教授にそう言われていましたが、その教授がセクハラで消えた、とありました。
いや〜…よほど腹に据えてたんでしょうね。テレビではとても大人しそうな又吉さんですが、内面にはメラメラと静かに炎が燃えているのだろうなと思います。
「人間」にも、不器用な主人公永山が一生懸命生きていく様子が描かれていました。まるで静かに炎が燃えているように。
「悪い意味じゃなくて、永山はなんでも劇的にしたがる癖があるよな」
これは、永山と同じアパートに住んでた影島が言った言葉です。
永山は恋人だと思っていた人をある男に寝取られ、また自分で作ったと思っていた作品が実は他人が作ったものだったとわかり、ものすごく自己嫌悪に陥ります。
「恋人のこととか、自分の作品に違う誰かが関わったとか、他者からすれば小さな傷でしかないことも、永山は事実を捻じ曲げてでも、その傷を致命傷になるくらい大きくしようとする。なにかを楽観的に捉えることよりも、自分の責任を厳しく追及する方が真実っぽく見えるのは、自分で自分のこと悪く言うわけがないという信憑性の薄い前提の上でしか成り立つことのない、ヒトが陥りがちな錯覚やと思う。自分のこと悪く言うと、冷静に俯瞰で物事を見ているという単純な理屈やろ。それはそれで、かなりバイアスかかってる。それって、結局は自分のことを特別視しすぎてるんやと思う。自ら手をあげて汚名を背負うと宣言する。周囲から、あいつら罰を受けていると知られている状態の方が自分では楽やねん。ただし、どこでも刺してくれというわけではなくて、刺していいとこと、あかんところがあるやろ。他人には選別が難しいけど、自分では明確な基準がある。そこだけは触られたくないという」
なるほど。
確かに自虐的になっている時は、すごく気分が楽になるということはわかる気がします。
「ハッピーちゃんって、すごい自分に自信がないよね。もっと自信持ったらいいのに」
これはいろんな人にたくさん言われてきた言葉です。私は割と自虐的になって笑いを取ろうとするのですが、次第に決まってそう言われるのです。
私ったらデブでブスだから
私ったら偏差値底辺の公立大学だから
私ったら性格カスのメンヘラだから
私ったら友達全然いないコミュ障だから
私ったら………
挙げたらキリがないほどコンプレックスで溢れていて、「そんなに気にすることではない」ことを「自分にとって完全に消さなければならない汚点」として自分で宣言している節があります。
でも、その方が楽なのです。
確かにこんなにコンプレックスを抱え、重くとっているのは自分に自信がない証拠と言えるでしょう。でも、「自分にはこんなにも悪いことがあって、それをわかっています」と言うことによって、「周りあるいは自分自身をとてもよく俯瞰できている」としているも同然なのです。
そうです。結局は自分自身のことを特別視しているのです。
自分のことを特別視しているあまりに、こうして欠点を劇的に扱い、致命傷のようにする。自分に自信がないとしていながら、自分のことをとても大事にしているという矛盾が生じるのです。
「もっと自信を持ったらいいのに」はまさに、一面的にしか捉えられてないのです。私はとても自分のことが好きで、好きだから自虐的になっているのです。
まぁ…それでも「自信を持ったらいいのに」と言われて嬉しくなる自分もいます。私のこと素敵な人間と思ってくれているんだな、なんて思ってしまう自分もいます。
そういう意味では私も不器用なりに人間として生きていってるのかもしれません。自虐的なくせに自分が好き。「自信をもちなよ」と言われ、「そうじゃない」と思いながらも「ありがとう」と喜んでいる自分がいる。
永山のように、苦しみながらも自分らしく生きていきたい。矛盾を抱えながらも前向きに生きていきたい。そう思いました。
「人間」は本当にいろいろ考えさせられる本です。皆さんもぜひ、読んでみてください。
それでは、さようなら。