幸せなら手を叩こう

思ったことを徒然なるままに

連帯責任

こんにちは、タカハッピーです。

今日、上司とこんな会話をしました。

ハッピー「私、中学全然楽しめなくて。学校の治安は良かったんですけどね」

上司「ハッピーちゃんの話聞いてる限り治安悪いよ。だってハッピーちゃんのされてること、すごく陰湿じゃないか」

前に「かがみの孤城」の感想文でも話しましたが、私は中学時代ずっと勉強ばかりしていて、学校そのものを楽しめてませんでした。

人を信じると疲れるのでもう何にも期待せず、黙々と勉強していました。そうすると気持ちも楽になるし楽しかったのです。

上司「俺らはそういうイジメとか絶対に許さなかったし、もし俺がハッピーちゃんの学校だったらハッピーちゃんのこと守ってたな」

ハッピー「ありがとうございます…。お気持ち嬉しいです…。あの頃は本当に人間関係に疲れてましたね…。私は文化部でこれだけ疲れてましたが、運動部は運動部で本当に大変そうでした」

上司「どんなことされてたの?」

ハッピー「うちの中学、とある運動部がすごく強豪で。全国大会とかに出るくらい強かったんですけど、そこでのイジメがすごく陰湿だったみたいで」

上司「ほうほう」

ハッピー「その運動部に少し運動神経が良くない子がいて。めちゃくちゃ真面目だし、ふざけてなんかないのに、部活でミスをしたり練習試合負けたりして、連帯責任として外周とかさせられてたみたいです。チーム全体で。連帯責任なんてイジメの根源でしかないし、やってはいけないのにそれをやる教師にも本当に問題があると思います」

私は本心を言いました。連帯責任はイジメの根源。やるべきではないと心から思っていました。

すると、上司はこう言ったのです。

上司「…連帯責任って、やってはいけないの?」

…エエッ

ハッピー「ダメですよ!『お前のせいで』ってなるじゃないですか」

上司「でもそれじゃあ『個人は個人で好きにやれ』ってなるじゃないか。果たしてそれはいいことなのか?社会に出て、例えば仕事でミスをするとする。その人が悪いことをしたら課全体が悪く言われ、しまいにはその会社全体のイメージが落ちる。その流れは避けられないことだと思うんだ」

…ウム

なるほど…そういう考え方があるのか…

上司「そもそもハッピーちゃんはさっき『お前のせいで』ってなるって言ってたけど、その感覚がすごく違和感がある」

ハッピー「エエッ」

上司「連帯責任ってのは、できない人を責めて潰すものじゃない。できない人をいかに自分たちで補い支えていくかだ。そもそも罰として走るのは、俺らの時は出来なかったものを責めるというよりは、ふざけて怠けていた時に『走れ』というような感じだった。その子は真面目にしていたんだろ?そのチームは「お前のせいで外周だ」と思うんじゃなくて、「あなたができないなら私たちで補って協力していこう」という姿勢がいるんじゃなかったのか?それが連帯責任じゃないのか?」

ハッピー「…」

上司「俺らはずっとそう言い聞かされてきた。連帯責任は補っていくものだ、とな。それは社会においての連帯責任もそうだと思うし、チームワークにおける意味でも大切だと思う」

…なるほど。

めちゃくちゃ附に落ちました。

確かにわたしは連帯責任は「お前のせいで」と責められるイジメの根源でしかないと思っていました。実際、その運動部ではいじめが横行してたし、できない人を潰すものだと思っていました。

でも、それは間違いだったのかもしれません。

社会において連帯責任は確かにあります。私はポンコツなので本当にアホなミスを連発します。私のせいで上司が残業になったことも何度もあります。

でも上司たちは絶対に私を責めません。

「今できなくても大丈夫」

「次から気をつけたらいいよ」

こんな風に言ってくれます。

それは、上司たちの中では「連帯責任」は「補い合う」ものだと思っているからなのだと納得しました。

あの運動部の顧問の先生は中学時代から苦手でしたが、今思えば「連帯責任」は「お前のせいで」という考え方を植え付けた本当に良くない教師だったんだろうなと少し思ってしまいました。すごく強いチームを作りたかったのかもしれないけど、技術じゃなくて補い合うことをちゃんと言い聞かせるべきだったんじゃないかなとすごく思ってしまいました。

(私はその部に所属していたわけではないので「チームワーク」を言い聞かしてなかったとは言い切れないですが、でもイジメがあったことは事実だし、先生は先生なりにちゃんとしないといけなかったのではと思い、そう書かしていただきました)

世の中の連帯責任が「お前のせいで」ではなく、「補い合う」の気持ちになりますように。

それでは、さようなら。