幸せなら手を叩こう

思ったことを徒然なるままに

あいこの読書感想文を読んで

感想文、書いてみなよ!あいこの書く感想文読んでみたいな。


私はたしかにそう友達に言った。

私はブログを書くことを趣味とし、特に最近は読書感想文をよく書く。読書感想文は夏休みの嫌な課題として片付けられがちだ。しかし、私にとって読書感想文は、自分のことを見つめられる上感受性や文章力をあげられる、とてもいい機会だと思っている。


中高同じだった友達…あいこは、私の憧れだった。

中学生になりたての私は今よりずっと自分に酔っていた。勉強もできる方だったし、作文にも自信があった。人間関係に悩むこともなく、毎日が楽しかった。

吹奏楽部に入るまでは。

私は「中学の時美術部だった」とブログに記しているし、そう言っている。しかし本当はちがう。私は最初吹奏楽部に入っていた。あんまりこの時のことは思い出したくない上、部活を辞めたことはとてもコンプレックスなので隠していたが、この際だから書いた。簡単に言うと先輩たちと折り合いがつかなかった。胸ぐらを掴まれ怒鳴られたり、4〜5人の先輩たちに囲まれ「お前なんかいらないから部活やめたら?」と何度も言われた。親が高い楽器を買ってくれたから辞めたくても辞められず、毎晩部屋で泣いていた。次第に朝起きて学校に行く気がなくなり、朝練にも遅刻しがちになった。後輩が下積みとしてやるトイレ掃除の時間も先輩に捕まり難癖つけられていたため、しだいに同級生からも嫌われ、気がつくと一人だった。

死にたかった。

なんでうまくいかなくなったんだろう。頑張ったつもりだったのにな。

自分で自分が憎くかった。みんなから外される理由はちゃんとあるはずで、普通になれない自分が嫌いだった。

それでも遅刻はしたけれどなんとか部活には行った。みんなから無視され、クスクス笑われても行ってやるんだと意地になっていた。

でも、ある日限界が来てしまう。

「ハッピー、私のリード取ってる?」

部員が楽器に使う道具がなくなると言った。

そんな意図はなかったかもしれない。でも私はそれを「盗んでる」と思われた、なんて感じた。

それだけが原因ではないけど、もう限界だった。

高い楽器を買ってくれた親には申し訳ないけど部活を辞めた。無理だった。耐えられなかった。

そうして美術部に入った。絵を描くことは嫌いではなかったし、心機一転頑張るぞ!と思っていた。

…けれど美術部に入ってからも人間関係には悩まされていた。

私は「元々違う部活にいたけどうまくいかなくて美術部に入りました」グループに所属していた。いつもそのグループのリーダー的存在の子の機嫌をとり、ハブられないようにその子の言うことを聞いていた。

その子に嫌われたくなくて部活の顧問に反抗的な態度もとった。次第にその顧問だけではなく先生たちからも嫌われて、成績も下がっていった。

学校のどこにいても息苦しかった。私の中で世界は中学校そのものだった。一人になりたくなくて頑張っているのに、気がついたら周りに私の味方はいなかった。同級生、部員、先生までも私のことを嫌っているように感じた。部活を一年でやめてしまったことも親に本当に申し訳なくて、普通に部活を3年間やって、友達がいて、先輩や先生とも仲良くできる人が心の底から羨ましかった。

あいこは、そんな私と対極的な人間だった。

3年間美術部を全うし、さらにはみんなの投票で部長をやっていた。いつも周りには「あいこあいこ!」と人が集まり、先生からの信頼も厚かった。頭も良くて、私より成績が上だった。特に文才に長けてて、読書感想文は常に賞に入っていたように思う。

私は彼女になりたかった。

昼休み誰とも話さず勉強していたのに、成績があいこより下なこと。何ヶ月も前から構想を練ったのに読書感想文もあいこの方が上だったこと。一年で吹奏楽部を辞め、途中で入った美術部もうまくいかない私と、みんなの投票で部長になったあいこ。

「知ってる?あいこって生花と習字をすごく小さい時からやってるんだよ」

「あいこのお母さん、帰国子女なんだって」 

ああ…と思い知る。

私と彼女は何もかも違いすぎる。何もかも違うのだ。もう生まれた時から決まっていたのだと確信した。私はもともと皆から嫌われる何の長所もない人間で、あいこは何でもできるすごい人間なのだと。

だから、あいこが「かがみの孤城」を読んで途中で苦しくなっていたなんて、想像もつかなかった。

かがみの孤城」は私が勧めたし、読書感想文を書くように言ったのも私だ。

私の何倍も文才があって頭のいいあいこが、この本を読んだらどう感じてどう文章を書いてくれるのか、読んでみたかった。

私は高校では息苦しさを感じることはあまりなかった。一部の人から嫌われることはあっても、「友達」と呼べる人はいたし、部活を途中で辞めることもなかった。家にいるより学校で過ごす方が楽しかったし、充実していた。

あいことは同じ高校だけれど、3年間クラスが違った上、部活も異なっていたからほとんど会う機会はなかった。

学校に行けてない、という話はTwitterで把握していたけれど、それはもともと体が弱いせいだし、そんなもんかと勝手に思っていた。


『学校に行けば自分が求める「普通」がそこにあって、この足さえ動かせば手が届くのだ。それなのに、説明のつかない対人恐怖感に苛まれて体は動かず、ただただ時間が早く過ぎてくれと祈りながら暗い場所で隠れていた』


あいこは「学校に行けない」ことを苦しみ、普通になることに憧れていたのだ。

驚いた。だって、あいこは人望もあって頭も良くてキラキラ輝いていた。私からするとあいこは「普通」だったし、まさかかがみの孤城を読んで苦しくなるだなんて思ってもみなかった。

私はいろんな人に「かがみの孤城」を勧めたが、皆が口にした「感動した」という感想をインテリっぽく語ってくれるだろうと勝手に思っていた。それが、彼女は胸を痛め、自分のことように苦しみ、もがきながら読んでくれたのだ。


『「普通」って何なんだろう。いつからか求めていたものは、改めて考えるとすごく曖昧で空虚だ。きちんと社会活動に参加している身近な人のことを漠然と「普通」とカテゴライズしていたけれど、私の周りにはそうであっても家庭環境が複雑だったり自分の特性との向き合い方を模索していたり苦労を抱える人はたくさんいるし、それぞれが違う。毎日起こることすべてが良いことで幸せだ、なんて人は多分いない。私が渇望した「普通」はもしかしたら私が知らぬ間に作り上げた「理想」だったのかもしれない』


この部分を読んで、ああ…と納得した。

私は中学のころ、普通になれなくて悩んでいた。私の言う「普通」は、部活をちゃんと3年間やって、友達と呼べる人がたくさんいて、先生からも信頼されてる、そんな人。でもこれって、結局は「私の理想」でしかない。私の理想そのものだったあいこも、自分の生まれた環境を呪い、高校の時はうまく学校に行けないことに心身を蝕まれていた。

もしかすると、「普通」であることを望んでいるあいこは「ハッピーさんは普通だよ」なんて言うかもしれない。私自身は、自分のことを普通だなんて思ったことなどないけれど。

きっと誰もが人間関係に悩み、家庭の事情を抱え、「普通」という理想を願っているのだと思う。あいこの感想文を読んでそれを強く感じた。


「普通」なんてどこにもなくて、きっと誰もが「特別」な人生を送っている』


本当にそうだ。

私もあいこも、このブログ記事を読んでくれたあなたも、きっと普通ではなくて特別な人生を送っているのだと思う。

私は今でも中学の頃の出来事を思い出すと苦しくなるけれど、きっとそれも特別な人生と呼べる一部なのかもしれない。


『もう少し毎日に潜む奇跡を信じてみたい。一生かけても見渡せないほど世界は広いし、敵もいるけど味方もたくさんいる。それに気づいたらどこへだって行ける』


そう、私たちはどこへだって行ける。

これから先何が起こるかわからない。それを楽しみながら生きていきたい。