幸せなら手を叩こう

思ったことを徒然なるままに

ぼくのメジャースプーン

こんにちは、タカハッピー です。

今日は本を読み終えました。

それがこちら。

 

ぼくのメジャースプーン (講談社文庫)

ぼくのメジャースプーン (講談社文庫)

 
 
辻村深月先生の「ぼくのメジャースプーン」です。
この本の主人公の男の子は"力"を使うことができます。
"力"。それは相手を縛ることのできるものです。「あなたは反省する。さもなくば一生後悔する」と言うと、相手は何が何でも反省をしてしまう、そんな力。
 
力、というとわたしは小さい頃から「力」というものに憧れを抱いてました。
「ハッピーさん。あのね、文集のここのところ、直してくれる?」
小学二年生のころ、担任の先生に文集のある部分を直すよう指摘されました。
「どこですか」
「ここよ、ここ」
そこにはこう書いてありました。
「しょう来のゆめ  ま女」
…これの何がいけないのだろう。
わたしは将来魔女になりたい。可愛いコスチュームを着て、キラキラ光るステッキとコンパクトを手にする。「ピーリカピリララ」と唱えるだけで誰もが羨む魔法を使うことができる。
この頃ちょうど、お父さんが何を思ったか、「おジャ魔女どれみ」のビデオをたくさん借りてきてくれました。わたしは食い入るように「おジャ魔女どれみ」を見て、次第に魔女に憧れていたのです。
「小学二年生にもなって魔女になりたいなんて。ちゃんとした職業を書きなさい」
…でも先生。私は魔女になりたいんです。ケーキ屋でも、保育士でも、ピアニストでも、看護師さんでもない。キラキラ輝く魔女になりたいんです。
この言葉を飲み込み、私はテキトーなことを書いて再提出しました。なんて書いたかは覚えてません。
おジャ魔女どれみ」の世界が架空のものだと半分では理解していたつもりでいましたが、半分は「自分にも魔女になれる機会があるんじゃないかな」と疑っていませんでした。
私も下校中に魔女リカに会って魔女見習いとして修行の日々が始まるかもしれない。自分だけの妖精さんと一緒にホウキで大空を飛ぶかもしれない。
朝着替える時も、おジャ魔女どれみの変身曲を頭の中で流し、着替え終わったら「プリティウイッチ、ハッピーッチ☆」と決めポーズを決めてました。
……そうです。小2にしてはちゃめちゃに痛い女の子だったのです。
さすがに小3以降は魔女になりたいなんて言わなくなりました…
…が、力には相変わらず惹かれていました。
小学五年生のころ、「しゅごキャラ!」という漫画(アニメ)が女の子の間で流行っていました。
「キャラチェンジ!」
しゅごキャラ!」は主人公のあむちゃんが、なりたい自分の化身のしゅごキャラたちの力を借りて変身をする、という物語でした。例えば、快活なしゅごキャラのランとキャラチェンジしたら運動神経抜群になって体育や休み時間に活躍できる。芸術センス抜群のしゅごキャラ、ミキとキャラチェンジしたらプロ並みの絵を描くことができる。家庭的なしゅごキャラ、スゥとキャラチェンジしたらコックのような料理が作れるようになる。
魔法、とは違いますが、私はこのキャラチェンジにもとても憧れを抱いてました。
「私も○○くんから愛されるキャラにチェンジしたいなぁ。○○くんから好かれるような能力や性格のしゅごキャラが生まれてくればいいのになぁ…」
初恋の男の子から愛されたい。だからキャラチェンジしたい。
理由は至ってシンプルでした。力でなんとか愛されたい、と思っていたのです。
 
「ぼくのメジャースプーン」の世界の力だとこうなるでしょうか。
「私のこと好きになれ。さもなくば一生後悔し苦しみ続ける」
そう囁いたら相手は何が何でも私のことが好きになります。二人は愛し合い、ハッピーエンド………と、なるでしょうか。
「声の力で反省を迫る。そこでの反省は所詮、こちらが働きかけたことの結果で、彼自身が自分からそうしたことではない。それで満足ですか」
これは主人公の「ぼく」が、幼馴染の女の子「ふみちゃん」を深く傷つけた犯人に対して復讐をしようと考えている時に、秋先生という「ぼく」と同じ力を持つ人が言い放った言葉です。
なるほど、確かにそれはそう。「力」による意思は自分からなされたものではない。私が「好きになれ」と命令したところで相手が心から私のことを好きになるわけではない。
私は小さな頃から力というものに惹かれ、憧れ続けてましたが、結局はどれも自分のためでしかないのだろうな、と思いました。「魔法を使ってテストで100点とりたいな」「初恋の男の子に愛されたい」前者は自分の能力をあげる努力をすることなく力に頼り、また後者も男の子の意思を全く尊重せず、自分のことばかり。
「誰かが死んで、それで悲しくなって泣いても、それは結局、その人がいなくなっちゃった自分のことがかわいそうで泣いてるんだって。人間は自分のためにしか涙が出ないんだって」
このフレーズを読んで、さらに納得しました。人は、結局自分のことしか考えていない。「ぼくのメジャースプーン」の「ぼく」も、「ふみちゃん」を思って復讐しようとするけれど、復讐したからといって「ふみちゃん」は何も変わらない。過去は取り戻せない。結局は腹いせのため、そう、自分のためでしかない。
自己中という言葉がありますが、結局人間はみな自分が中心なのだと私は思います。人が死んだら自分を思って悲しむ、というのはあながち間違えではないでしょう。
「責任を感じるから、自分のためにその人間が必要だから、その人が悲しいことが嫌だから。そうやって『自分のため』の気持ちで結びつき、相手に執着する。その気持ちを、人はそれでも愛と呼ぶんです。自分のエゴで、自分の都合で、時に結びつき、時には離れ、互いを必要とする気持ちに名前を与えてごまかしながら、僕たち人間は発展してきた」
…愛。
愛も結局は人間の都合のこじつけでしかないのでしょう。しかし、秋先生の言うとおり、そのこじつけを愛と呼ぶことで人間は発展してきました。
人はみな、自分にとって都合のいい人が「いい人」であり、自分にとって都合の悪い人が「悪い人」です。友人も、自分にとって優しい人が友人なのであって、そうでない人は苦手だったりします。
けれど、その中に存在する執着によって、人は成り立っています。コミュニティを作り、仲良くし、支え合っています。
だからそれを悪いことだと考えることはないのかもしれない。そういう風に思いました。
「力」を使おうと考えるのは結局自分のためでしかない。それどころか人は自分のためでしか感情を揺さぶられない。でも、それが人間というもの。それでも人は互いに執着しあい、発展してきたということ。
辻村深月先生の本は本当に深いです。卒論までにもうすこし読むぞーー!笑
それでは、さようなら。